監獄秘話

第3話 囚人が開いた土地

映画「網走番外地」ですっかり有名になった網走刑務所ですが、現在使われているのは昭和59年から平成22年度までに建て替えられた近代的な建物で、明治以来使われてきた古い獄舎は天都山のふもとに移築保存され、「博物館網走監獄」として皆さんのお越しをお待ち申し上げている訳です。

今日はひとつ、この監獄にまつわる歴史や人物をご紹介し、刑務所とは何ぞやーということを今一度考えたいと思います。え?刑務所なんて私と関係ないですって、はたしてどうでしょう さあ、ひとまず先へ進みましょう。

その昔、北海道はエゾ地と呼ばれ、江戸時代には、和人の定住が始まりました。明治維新後、エゾ地は北海道と名を改め北海道開拓使によって本格的に開拓される時を迎えます。しかし、オホーツク海沿岸は厳しい寒さと流氷にはばまれ、夏の間漁場が開かれるだけで開拓から取り残されていました。 和人が初めて冬を越したのは、明治12〜3年頃だと言われています。どうしてそんな不便なところに監獄を建てたりしたんでしょうね。実はそこには北海道開拓にまつわる暗く悲しい歴史が隠されているのです。

明治の初めはご存じの通り幕藩体制から天皇制に変わったばかりで、国中が大きく揺れ動いていた時代。そのため、佐賀の乱や西南の役など各地で反乱が相次ぎ、「国賊」と呼ばれる時代の産んだ罪人が大量に出た時です。さらに度重なる戦乱で国民は困窮し心がすさみ犯罪を犯す者があとを絶たないため国中の監獄はパンク寸前で、つぎつぎと新しい監獄を作らなければなりませんでした。 また開国したばかりの日本は、欧米の列強諸国に一日でも早く追いつき追い越そうと必死に富国強兵政策をとっており経済的に大きく発展するためには、未開の地北海道の開拓がぜひとも必要だったのです。

不凍港を求め南下政策をとるロシアの脅威から、日本を守るという軍事上の理由から北海道の開拓は大至急行わなければならず、そのためにはまず、人を運び物を運ぶための道路を作らなければなりませんでした。しかし、国の財政にそんな余裕はない。そこで考え出されたのが、増える一方の囚人を労働力として使うことです。

開拓のために道を作るといってもこの原始林では民間に頼めばとんでもない賃金となるだろう、だが囚人を使えば費用は半分以下ですむし、悪人なのだから作業で死んでも悲しむ者もない、囚人の数が減れば監獄費の節約にもなる、まさに一挙両得であり今後も困難な作業は、囚人を使うべきだ。

というわけで開拓のために北海道各地に監獄を作る計画はどんどん進められます。明治14年に現在の月形町に樺戸集治監が作られたのを皮切りに明治15年空知集治監、明治18年に釧路集治監と、次々に作られ北海道に囚人が集められました。網走刑務所は最初「網走囚徒外役所」と呼ばれ中央道路開削工事のため明治23年1200人もの囚人が送り込まれました。

道無き道を進む囚人の旅は険しい地形と熊との戦いだったと言います。道央とオホーツク沿岸を結ぶ道路の開削工事が、千人を超える囚人により昼夜兼行で強行されました。逃亡を防ぐため囚人は二人ずつ鉄の鎖でつながれながら(連鎖という)の重労働でした。工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり栄養失調やケガなどで死亡者が続出困難を極める難工です。 あまりの苦痛に耐え切れず逃亡を企てて看守に抵抗しようとした者は、その場で斬り殺されたのです。たとえ首尾よく逃げられたとしても食料もなにもない山の中のこと、結局、戻って来るしかありませんでした。

死んだ囚人たちは、現場に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたと言い伝えられ、そこで誰言うともなしに囚人たちの墓を「鎖塚」と呼ぶようになりました。昭和30年頃から郷土史を研究する人々や住民を中心にこれらの遺骨を発掘する作業が熱心に進められ今では追悼碑やお墓が建てられるまでになりました。千人の従事者から看守も含め、二百人以上の犠牲者を出したというのです。北海道での囚人労働は炭鉱や硫黄採取などでも行われ、そのつど多数の犠牲者を出していました。特にここは犠牲者が多く、囚人道路と呼ばれています。「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と、国会で追及されるに及びついに明治27年廃止されたのです。

しかし、この囚人労働の歴史はその後もタコ部屋労働に引き継がれ内地(本州)で食いつめた労働者や外国人を巻き込み大正、昭和と押し進められるのです。今日の北海道の繁栄は尊い犠牲の上になりたっていることをどうか忘れないでください。